クマの駆除への県外からのクレーム

クマの駆除への県外からのクレーム
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純粋な気持ちからの行動かそれとも目的をもった行動か

捕獲したクマの駆除をしたところの県外からのクレームが殺到しているというニュースを見た。

駆除が行われると毎回ある程度のクレームが発生するという話は聞いたことがある。なかなか行動の目的が分からない部分も多いと感じるが、これは動物愛護や動物倫理、あるいは環境活動家などの人々なのだろうか?それとも純粋に、その他の細かい話は置いておいて「殺してしまうのはかわいそう」という一心から発生している行動なのだろうか?あるいは、私自身が想像もつかないような何か別の理由から駆り立てられる行動なのだろうか。

このところ難しい本ばかりを読んでいるからか、だんだんとこの手の話題に触れるのが嫌になってきた思考のアンテナが働くようになってきた。

両極は何か

今回のようなケースでの両極にある意見は何になるのだろう。片方は「地域のクマを完全に駆除」でもう一方は「絶対に殺すな」になるわけだ。本来であれば、大抵の人はこのどちらにも属さずにこの両極の間のどこかに思考的整理がされているはずで、その場所はその都度、状況によって推移するはずだ。

極論とその間

絶対に殺すな側

基本的には思想として確固たる信念と目指すべき世界がある人達だろう。「活動家」と呼ばれる人達の中の更に少数がこの「どんなことがあっても殺すな」的な思考に到達する。多くの活動家は、この極論に至る手前の「絶対に殺す必要のない形を作る」ことに重きを置いているはずだ。

地域から害獣を掃討しろ側

思想としてここまで至っている人達がどこまでいるのかは個人的には知らない。農家の人達で毎年毎年害獣に膨大な損害を与えられているような場合は、そのような考えに至ってしまう人がいても何ら不思議はないと思う。だが、ことクマに至っては、(相手が明らかに人間よりも巨大で強力だから)あまりそのような話を聞いたことはない。が、極論としては、「絶対に殺すな」に対局は「全部殺せ」になるのだろう。その手前には「危険が及ぶ可能性がある限り駆除」があるだろう。

その中間の考え

こう考えると、極論の間にいる人たちが目指している世界というのはそこまで違いがないということが分かる。今まさにクマの脅威にさらされている地域にとっては、子供・大人にかかわらず命の危険にさらされているわけなので、危険が及ぶ可能性がある限りは駆除もやむなしだろうし、極力殺す必要がないように居住区への侵入経路の特定や封鎖、対策などを目指すのも同時並行で必要になるわけだ。そして、こんな当たり前のことはたぶん何年も前から分かっているし、可能な限りの対策もやってきた上での現状なのだろうが、問題はそういうことよりも人手であったり自治体の財政だったりする可能性もある。

そう考えれば、駆除に対するクレームを入れるよりも、積極的に上記の対策に必要な項目を洗い出し、それらに必要になる費用の算出と合わせて、クラウドファンディングなりふるさと納税でもなんでもいいので寄付を募るなどをすればクレーム殺到を実行しているような人達であればきっと沢山のお金を支援してくれるに違いない!うん、そうに違いない。

「金は出さないが口は出す」程度の話であれば自治体は無視するしかない。安全な場所から文句だけいい、責任は「人類」にあると上段に構えた上で駆除を妨害した結果、失われる命は現地の住人となってしまうのであれば、それはどんな罰ゲームなんだ?という話になってしまう。自治体は粛々と住民の命を守る可能な限りの対応をして行くしかないであろう。渡してとしてもそうしてほしいと思いつつ、同時に駆除する必要のない形をどのように作っていくことができるかを真剣に模索していく(もちろん模索してきているだろうが)必要があるのは言うまでもない。もっといえばどうやって対策に必要となる資金を獲得することができるかを考え実行していくしかないと思うのだ。

善悪とは

「善」と「悪」の分別というのは、よほどシンプルな事柄ではない限りはあらゆる領域において共存している。あるいはその「事柄」にどのように携わるか、その「事柄」と自分自身との距離によって何が善で、何が悪か、という判断が初めて発生するだろう。

今の時代を生きる私達は、この「事柄」に対して極端に距離が近いと考える習性がある。テレビやラジオ、新聞や雑誌が数少ない情報ソースだった昔とは異なり、世界でどんな問題が起こっているかを手に持っているスマホから流れるように情報が入ってきて、個々人の無責任な意見も含めて情報の波に飲み込まれていくわけだ。

そのためほとんどの人は、ある意味で強制的に何かの「事柄」に対してそれは「善(いいこと)」か「悪(わるいこと)」かで判断し、ほんの少しのスパイス(見聞きした適当な知識)と共に、SNS等からの自分と同じ意見の群衆と塊り、喜びや感動、悲しみや怒りを増幅させていくわけだ。

私達にできることは、好き嫌いにかかわず、自分とは違う意見にも耳を傾け、相手の主張の深い部分まで理解をしてみて、その上で何か自分の知らなかった事柄や理解が足りていなかった部分、相手の立場と全ての行動に伴う結果とその代償について、思いをはせてどのように前に進んでいくかを考えるということだと思う。

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